読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

勉強がしたくてもできない国の人と勉強をできるのにしない国の人

 この度ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユサフザイさんという少女の功績については、既にたくさんの記事が書かれていると思うので、僕のような者が敢えてここで論じるまでもないだろう。テロリストに銃撃され、瀕死の重症を負ったにもかかわらず、それにもめげずに児童や女性への教育の大切さを訴える彼女の姿には、僕のような者でも感銘を受けざるを得ない。彼女はまだ17歳という若さだが、何年も前から、教育がいかに重要かということを訴え続けてきた。命の危険に晒されながらである。テレビのインタビューの受け答えや国連でのスピーチなんかも堂に入ったもので、大した肝っ玉の持ち主だなあと感心させられる。
 しかし、マララさんの勇気や人間性、気位の高さには関心できても、誰もが6歳になれば教育が受けられる日本人には彼女の主張そのものはなかなか理解することが難しいのではないか。教育が受けられず、勉強がしたくてたまらない人々がいる一方で、教育なんて受けないでいいから頼むから家で寝かせてくれと思っている人間もいるのだ。僕自身も、今になってようやく少しは教育の大切さも分かるようになってきたが、マララさんと同じ17歳の頃なんかは明らかに後者の部類に属していた。
 勉強をする機会も時間も腐るほどあったのだが、当時の自分には、それが文字通り腐って見えていたのだと思う。両親や学校から勉強しろしろと毎日のように言われていると、どういうわけだか勉強したくなくなるのである。そればかりか、「勉強だけが全てじゃない」とか「成績よりも個性が大事だ」なんて理屈をどこかから聞きつけてきて、勉強しないことを正当化していたからタチが悪い。勉強をする機会が悉く奪われてしまうのも問題だが、身の回りに勉強する機会が溢れかえっているというのも、それはそれでまた問題であるように思う。
 日本でも子供が勉強したいと言い出すまで勉強する機会を徹底的に奪い続けるという期間があっても良いような気がする。本人がまだ勉強をしたいんだかしたくないんだか分からないうちに、周囲の人間がお節介を焼いてあれこれ知識を詰め込んでもあまり意味がない。そんなことをしても、知識はあれども、それを自分や世の中のために使おうとしない、ただの受動的で主体性のない奴が出来上がるばかりだろう。
 立派な大学に通っているのに、自分が何をしたいんだか分からないから、とりあえずイスラム国に行ってみれば人生何か変わるかもしれないなどと考えたはいいが、結局それにも失敗してしまう間抜けな奴なんていうのはその典型ではなかろうか。