どこの国に住むかは自分が好きに選べばいい

 平日の朝は出かける前に朝飯を食いながら、NHKの朝の連続テレビ小説を見るのがいつの間にか我が家での日課になっている。もはや習慣と化してしまっているので、内容が面白かろうが面白くなかろうが関係なく、見ることそのものに意義があるといった様相である。
 今年の10月始まった「マッサン」は今のところ面白いと思いながら見ている。ニッカウイスキーの創業者である竹鶴政孝と、その妻リタがモデルのドラマであるらしく、スコットランド人のエリーが、日本からウィスキー作りを学ぶために留学してきた政春と結婚し、政春とともに日本にやってくるところから始まる。エリーが日本の暮らしに溶け込もうと健気に奮闘する姿が、これまでもこれからも見どころになるのだと思う。
 調べてみると、エリーのモデルであるリタが来日したのは1920年大正9年)のことらしい。よくもまあそんな時代に遥かスコットランドから日本に来る気になったものだと感心してしまう。当時は日本に関する情報など全くといっていいほどなかったのではないだろうか。竹鶴政孝という男がよっぽど魅力的であったか、リタさんがよっぽど変人であったかのどちらかだろう。
 あるいはその両方かもしれない。日本に来てからというもの、リタさんが日本に溶け込もうとする努力たるや並大抵のものではなかったとか。日本語や日本の料理の特訓はもちろん、妻は夫の三歩後ろを歩くとか、妻は夫を立てるなどといった日本独特の夫婦の流儀にも完璧に合わせていたらしい。第二次世界大戦中、西洋人というだけで周囲からスパイの疑いをかけられるようになっても、「高い鼻を削り、目も髪も黒くしたい」とまで言ったそうな。
 100年前のリタさんに代表されるように、日本の文化や習慣を深く理解し、日本人から「あの人は日本人よりも日本人らしい」などと称される外国人は多くいる。その一方で、日本に生まれながら、「こんな窮屈で陰湿なムラ社会にいるのは嫌だ」とかなんとか言って、海外に安住の地を求める人もいる。一体前者と後者ではどちらを日本人と呼べばよいのだろうか。日本国籍を持っているのは後者なのだが、日本にいて幸せなのは前者の方だろう。どこの国に生まれようが、どんな肌や目の色をしていようが、日本の文化や価値観に同調し、合わせられる人は、日本人ということにして良いのではないだろうか。
 その国で幸せに暮らせていけるかということは、その人の国籍という表面的なものよりも、もっと深奥にある資質のようなものによるところが大きいのだと思う。今後も時代が進むにつれ、国をまたいだ人の行き来が、マッサンとエリーの時代や、今の時代よりもより簡単に、より活発になっていくだろう。そうなると、自分が生まれた国よりも、自分の性に合った国で暮らすことを選択する人がますます増えていくのかもしれない。