マッサンの最終回を見た後にカミさんに先立たれることを想像してしまうと夜も眠れない

 こんなことで涙するなんて自分もヤキが回ったもんだと嫌になったが、NHKの朝の連続テレビ小説マッサンの最終回には大いに泣かされてしまった。若い頃はどんなに感動的なものであってもテレビドラマを見たくらいのことで泣くことはなかったが、歳を取ると自分でも驚いてしまうくらいベタな話でも涙が出てくるので困る。人間は歳を重ねる度にどんどん不完全な存在になっていくような気がしてならない。
 マッサンというのは、要するに日本人男性と結婚したスコットランドの女性が日本にやってきてから亡くなるまでを描いた、ある一組の夫婦の物語である。最終回は妻であるエリーの死後、気落ちして部屋で泣いてばかりいたマッサンが、エリーが生前書き遺しておいた手紙を読んで生気を取り戻し、生涯をかけたウィスキー作りに再び取り掛かるという内容だった。
 その手紙に書かれていたのは、魔法の言葉でもなんでもない。「肉だけじゃなくて野菜も食べなさい」とか、「お酒を飲む時はちゃんと量を考えて」とか、「これからは自分以外の人が洗濯をするのだろうから洗濯物はきちんと表にして出しなさい」とか、どこの夫婦の間でも交わされているような、ありふれたやりとりである。僕の母も父に似たようなことを言っていたし、僕もカミさんから同じようなことを言われている。
 そして「最後に正直に告白するけど私にはウィスキーの味なんてさっぱり分からない」と告白するのも振るっている。エリーはウィスキーそのものよりも、一生懸命ウィスキー作りに取り組んでいるマッサンを見るのが好きだったのだろう。手紙を読み終え、そのことに気付かされたマッサンは泣くのをやめて、再びエリーが大好きな自分を取り戻すべく、ウィスキー工場に戻っていったのである。
 思うにマッサンというドラマは、国際結婚とか日本初の国産ウィスキーという特徴的な要素もあるものの、それらは物語にアクセントを加えるスパイスに過ぎず、その本質はある普通の夫婦が普通に歳をとっていく物語だったのではないかと考える。例えエリーが正子という日本人であっても、マッサンの職業が花火職人であっても、細かい描写はやや変わるだろうが、この物語の本筋は変わらないのではないか。エリーの手紙をマッサンと一緒に読んでいるうちにそんなことを考えた。マッサンとエリーは素晴らしい夫婦である。そしてそれは僕とカミさん夫婦をはじめとしたその他の凡百の夫婦も同じである。
 それにしても夫にとって妻に先立たれる以上に怖くて寂しいものはない。僕自身も妻を持ってかれこれ3年になるが、エリーを失ったマッサンを見ていて、そのことを実感させられた。カミさんが突然僕の前からいなくなってしまうことを考えると、ゴミも出し方や洗濯の仕方が分からないという物理的な面以上に、心の支えのようなものを失う精神面のダメージの方が大きい。マッサンの最終回を見てカミさんに先立たれた時のことを想像しただけで、隣に座っているカミさんの目も憚らずにおいおい泣いているのだから、格好悪いったらありゃしない。願わくばカミさんよりも早くに身体を悪くして死にたいものである。
 マッサンのモデルとして実在した竹鶴政孝氏もエリーのモデルであるリタが亡くなった時には葬式にも出ず、いい年をした爺さんなのに数日間家の中をうろうろしてはわんわん泣いていたということだが、まったく他人事ではない。日頃は家の中で大変に威張っていたうちの父親も、母親が身体を悪くして長期間入院している時などは目に見えて小さくなってしまい、一緒に見舞いに行った日なんかは弱っている母親を前に、ただおろおろとしている情けないおっさんに成り下がってしまっていた。当時僕は20歳前後であったが、思えばあの日から僕の中で父親を神のような畏怖の対象でなく、人間として観られるようになった気がするので、あれはあれで良かったのかもしれない。
 自分のことも含めていくつかの例を挙げてみたが、一般論としても、夫に先立たれた妻より、妻に先立たれた夫の方が後を追うようにすぐ死んでしまう例が多いようである。それだけ夫は色々な面で妻に依存しているということか。
 半年間マッサンというドラマを見続けてきたが、エリー役のシャーロット・ケイト・フォックスの演技には素人ながら舌を巻いた。聞けばアメリカの大学院まで進んで演劇の勉強をしたとのことだが、それだけ基礎が出来ているのだろう。エリーという女性が小娘だった頃から年老いていくまでを巧みに演じきっていた。特におばあちゃんになってからの演技は圧巻で、その雰囲気が写真で残っているモデルのリタさんがそのまま乗りうつったかのようだった。日本の役者を見て基礎ができているなと感じることは少ないが、アメリカでは大学で演技を学問として体系的に演技を学ぶことができるのだろう。
 全体的なドラマの感想としては、マッサンがウィスキー作りに行き詰ってうだうだとしている期間や、太平洋戦争に裂いた期間が長すぎるような気もしたが、仕事が見つからない期間や、戦争などといった果てが見えない時間の体感的な長さを表現しているのであれば、そういう演出もアリなのかもしれない。
 マッサン夫婦は移住先の北海道で何十年か暮らしていたはずだが、その晩年を迎えて初めて舞台が雪景色になった。思い出してみると二人が若い頃は春や夏の景色が中心に物語が進んでいたような気がするが、それは二人の人生を四季に例えていたのだろうか。冬に別れが来ても、やがて春が巡り、マッサンとエリーの冒険旅行は続くのである。