水木しげるの文章に救われた夏

 思いがけず水木しげる氏の訃報に接し、軽い衝撃を受けた。いくら我が国が誇る妖怪の権威とは言え、水木しげる氏本人が妖怪であるわけでもなく、生ある者は 必ず死ありというのが世の習いである。そんな事は頭では分かっているのだが、自分の中のどこかで、水木しげるは生死を超越した存在であると思っていたフシがあり、実際に逝去の報を目にしても俄かには信じられない。
 水木しげる氏は「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」などを世に送り出した漫画家として名を馳せているが、僕は氏の漫画よりも文章に少なからず影響を受けた。氏の文章を通して偲ばれる氏の人生観、価値観は、そんじょそこらの文章からは到底得る事はできないものである。僕自身が初めて氏の文章に触れたのは、中学生か高校生の夏休みのことだったと思う。特にすることもなく、近所の公立図書館を冷やかしに行った際に偶然目に留まったのが「ほんまに俺はアホやろか」という一冊だった。この本は要するに水木しげる氏本人が、自身の半生を振り返って記したものなのだが、飄々としてユーモア溢れる語り口の中に、世間一般に正しいこととされていること、当たり前と思われているものが、本当はどうでも良いものなのだと思わせてくれる力がある。この本は金を得たり地位を得たりすることよりも、他人から笑われようとも自分が本当にやりたいことをやることが幸せなのだということを教えてくれる。それだけではなく、やりたいことがなければ何もしなけりゃいいじゃないかという懐の広さを感じさせてくるのだ。
  氏がこうした価値観を確立するに至ったのは、本人の戦争体験によるところが大であったのではなかろうか。氏は太平洋戦争の折に軍に招集されたが、とことんマイペースな性格が災いしてか、軍隊生活にちっとも馴染めず、半ば厄介払いのように南方最前線のラバウルへ送られてしまう。ラバウルの地で、氏は幾度となく死線を彷徨い、 片腕を失いながらも奇跡の生還を遂げる(他の兵士が飢えでばたばたと倒れる中、氏のみは一人原住民と仲良くなり、バナナやパパイヤなどを食べて丸々と肥えていたというのだから恐れ入る)。
 水木しげる氏に限らず、春風亭柳昇など、戦場に赴き、生還した人の言動には、どこか浮世の人々が持っているコ ダワリを突き放したようなところがある。彼らは戦場で幾人もの兵士の死を目の当たりにしながら、自分が生命を失う日が来ることを何度となく思ったはずであ る。死を覚悟した者にとって、浮世の人間が抱えるコダワリや悩みなどはちっぽけなものに写るのではなかろうか。そして、彼らの漫画、文章、話に触れること で、僕達も普段抱えている心配や悩み事が、実はあまり大したことではないのかもしれないという救いを与えてくれるのだ。
 他にも、水木しげる氏は ヒットラー近藤勇といった、歴史的には 「悪者」、「敗者」とされる人物をよく取り上げ、伝記漫画を描いている。歴史の荒波に翻弄され、あがきながら世を去っていく彼らの姿に対する氏の視線は、どこか同情的で温かみに溢れている。特にヒットラーが最後に自決をする際に彼の目に滲む涙には、彼の哀れさ、寂しさ、悲しさが集約されていて、世界史上最悪の人間として知られるヒットラーも血が通った人間であることに気付かされる。氏のような視点で人間を描くことができる人が、今後もどんどん出てきて欲しいと願いつつも、もし戦場で死線を彷徨うことでしか達し得ないような境地であるならば、氏を不世出の漫画家であって良いのではないかとも思う。

ほんまにオレはアホやろか (新潮文庫)

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劇画ヒットラー (ちくま文庫)

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