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いじめられたって誰も助けてくれないから自分でなんとかするしかない

 しばらくいじめに関するニュースを見ないなと思っていたら、最近になって新聞やテレビなどでちらほらと報道を見られるようになってきた。報道されなかったからと言って、報道されなかった期間にいじめが全くなかったのかと言えば決してそんなはずはないだろう。いじめは世の中にありふれすぎていて、単なるいじめというだけでは報道する価値がないのだ。いじめは良くないとかカッコ悪いとか言うことは僕が生まれる前から言われて続けてきたことだが、その割に一向になくなる様子はない。きっとこれからも、いじめは良くないだの、売春は良くないだのと叫ばれつつも、これらが世の中から撲滅されることは決してないだろう。いじめはあってはならないというのは正論だが、正論だけでは世の中やっていけない。いじめは存在し続けるという厳然たる事実にどう向き合っていくかということが大切である。
 
 なぜいじめがなくならないのかと言うと、人をいじめることは楽しいからである。快感であるからである。僕自身も全く経験がないわけではないが、5,6人で寄ってたかって1人の人間をいじめる時、その5,6人の間にはある種の連帯感が生まれる。連帯感というのは、人間にとってなかなか得難い貴重なものだ。人々は連帯感に飢えていると言っていい。言葉は悪いが、たった1人にいじめの犠牲になってもらうことにより、求めてやまない連帯感を手に入れられるのであれば安いものだ。いじめる側が連帯感を求めていじめを行っているのであれば、いじめというのは単なる手段であり、目的は連帯感を得ることである。そうであれば話は簡単で、いじめではない別の代替手段よって連帯感を得られるように誘導してあげれば良いのである。目的が連帯感なのではなく、別の何かであっても、その何かを分析して、いじめ以外を通してそれらが得られるようにしてあげれば良いのだ。話は簡単なのだが、それを実践するのは難しい。そもそもその役割を担うのは誰なのか。学校であれば先生や親など、周りの良識ある大人達がその役目を買ってでれば良いのだが、世の中では良い大人がいじめをやっていたりするから始末が悪い。
 
 いじめの怖いところは、いつでも自分がいじめられる側になり得るところである。いつ、どんな弾みで自分がいじめられるのか分からない。だから人間はなるべく自分がいじめられることがないように防衛策を取る。下手に正義感を発揮して、いじめを止めさせるなどということは以ての外である。そんなことをしたら自分もいじめの巻き添えを食ってしまうことは火を見るより明らかである。時々いじめを傍観している奴らも加害者であるなどという乱暴な理屈がまかり通ることがあるが、いじめを止めさせるなどというのはかなりの高等テクニックを必要とするのではなかろうか。下手をすればいじめの矛先が止めに入った人間に向くことだってあるのだ。その高等テクニックを授けずに、ただ止めに行けなどというのは無責任である。そもそも傍観者は傍観者であるが故に、目の前で起きていることがいじめなのか、それとも単なる仲間内の悪ふざけなのか判断することが難しい。悪質ないじめであることが明確になったところで、傍観者には、いじめられている人を敢えて助けに行く義理もないし、いじめを止めさせることに対してメリットも何もない。だから傍観者が積極的にいじめを止めに行くことは決してないと言って良い。

 また、テレビの討論番組などを見ていて不思議に思うことは、「自分も昔いじめられていたことがあります」などというタレントや評論家が結構いるのに対して、「自分は昔いじめていたことがあります」という人があまりいないことである。いじめが1対1で行われるというのはあまり聞いたことがなく、加害者の方が圧倒的に多いはずで、いじめていた人達も、もっとたくさん出てきてもおかしくないと思っていたのだが、よくよく考えてみると、「これはいじめだ」という確信を持ちながらいじめを行う人はあまりいないのだと思う。いじめる側は、飽くまでジョークやゲームのつもりでいじめを行っているのであり、そこには罪悪感など生まれるはずもない。「これはいじめだ」と思うのは、飽くまで被害者側の感情でしかないのだろう。
 
 そうなると、不幸にも自分がいじめられる側になってしまった場合、誰か周りの人が救いの手を差し伸べてくれたり、いじめている側が自発的にいじめを辞めてくれることなど期待しない方が良さそうである。自分の身は自分で守るしかない。自分を救えるのは自分しかいないのだ。いじめを理由に自殺するなど以ての外である。手っ取り早いのは、いじめが行われている枠組みから飛び出すことである。いじめられていると行っても、別に世界中を敵に回しているというわけではなく、せいぜい狭いクラスの中だったり、会社の中だったりするわけである。そういうことならば、転校したり転職したりすれば、いじめの構図から抜け出すことが可能である。いじめられている人の中には、「自分のようないじめられ役がいなくなったら、いじめている側の人間が困るのではないか」とか「誰か別の人がいじめられるんじゃないか」とか変な責任感を発揮している人がいるが、そんな義理立ては一切無用である。
 
 なんらかの事情により、学校や会社から抜け出すことができないのであれば、「上手にいじめられる技術」を身につけるのが良いと思う。人間の自分のプライドさえ保てれば、どんなことをされても平気なわけだから、自分のプライドは守りつつ、加害者側に対して、いじめることを通して得られる快感を適度に与えてやれば良いのである。いじめられ方が上手い人、下手な人というのは確かに存在する。上手い人になると、いじめられることそれ自体を職人芸の域まで昇華させている場合がある。いじめに対して世の中がすべきは、いじめをなくすことではなく、いじめられてしまった場合の上手な受け止め方を専門技術として体系化し、それらを世の中に広めていくことではないかと思うのだがどうだろうか。